宝幢院

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つくば市立今鹿島小学校となり

 つくば市豊郷と宝幢院の歴史

崇神天皇時代
(300年頃、推定)
紀国造となった「筑ばにの命」が我名をつけ筑波としたという。
政務天皇
(年代不明)
阿閇色命が筑波国造となったといわれる。筑波国は河内郡、信太群、現在の稲敷郡の一部を含む。
霊亀年中
(715〜717)
郷里の制度が定められ、上郷一帯を豊田郷と称し、当大字は台豊田という。
延喜4年
(904)
豊田群一帯を豊田群とする。
承平元年
(931)
平良文、豊田本状の鬼門を守護するため、奈良春日神社より分祀し、台豊田に春日神社を壮健。
また、金村代附近に、別雷神社を創建。
正治年中
(1199〜1201)
手子生字内山に小田家の老臣、横山左京築城し、手子生、野畑、近郷を治む。
正応5年
(1292)
道教により宝幢院を開山、今鹿島字宿にあり。
応永9中
(1402)
酒丸に普門寺叡珍、安楽寺を創建、のち徳川家光より寺田10石を賜う。
文安2年
(1445)
普門寺良弁宝幢院を中興、同時は寛政、嘉永両度の火災に合うも詳細不明。
朱印寺15石、刺抜き大師在り。
享徳3年
(1454)
祥庵吉公入道、大祥寺の全身たる尾花山金西院祥庵寺を旧吉沼村田倉字焼薬師原に建立。 
寛正6年
(1465)
平将監の家宰坪井越後守平宗信、金村西の浄地に隨翁院を開基し、生観世音菩薩を本尊とす。曹洞宗に属す。
文明11年
(1479)
豊田四郎将軍平治元の叔父、長峯左近将監正次、長峯城を築く・また小貝川の川上塔台に宗徳院の前身である即徳院を開基。薬師如来を安置。曹洞宗に属す。
永正元年
(1504)
豊田四郎政親の臣藤原清和(原外記)本拠を田倉郷に構う。 
永正8年
(1511)
即徳院を今の地に移し、上郷山崇徳院と称す。 
永正10年
(1513)
隨翁院を今の横町に移す。
永正16年
(1519)
遠東に稲荷神社創建。
享禄2年
(1529)
現在の覚心院の前身田倉山福応寺を阿台厳入道、田倉郷に開基。常陸の守護、結城三河守の崇信深し。
天分2年
(1533)
金西院祥庵寺を田倉郷、焼薬師原より今の地に移し、金西院大祥時と称す。曹洞宗に属す。
天分8年
(1539)
沼崎字北に聖林寺創建。 
天分10年
(1541)
観音寺、普門寺隆元により百家に開基。のち、朱印5石を賜り、また火災にあったが詳細不明。 
永禄元年
(1558)
長峯原の合戦。多賀谷重政、豊田を攻め長峯原で小田氏の援兵と合戦して敗れる。
元亀元年
(1570)
平塚合戦、結城晴朝、小田領に侵入するも、小田天庵の配下の諸士と対陣、菅左衛門、沼又五郎、野州にて結城勢を打破する。
天正年中
(1573〜1592)
小田氏の臣、赤松則実、手子生城に居を構う。のち天羽源鉄斉これにかわる。
豊田の家宰坪井越後守の臣が木俣に入植し、農業を営む。以後木俣近郷の人口増加す。
創立年月不明の歓喜院を豊田より今の地に移す。真言宗神郡普門寺末に属す。
天正元年
(1573)
金村代の戦い・下妻城主多賀谷氏豊田氏を攻撃。小田治親豊田を助け金村台に戦う。
天正2年
(1574)
小田氏、佐竹に滅され、手子生城主菅谷氏も討死。手子生一帯は佐竹の支配となる。また一時は多賀谷氏の支配するところとなったが、菅谷氏の支配するところとなったが、菅谷左衛門尉正光が多賀谷氏により一帯を委され近郷を治む。
天正3年
(1575)
多賀谷政経、謀を持って豊田城主豊田治親を、その家臣飯見大膳は豊田の旧家臣のため刑死となり、豊田は多賀谷の支配となった。
天正10年
(1582)
多賀谷修理大夫、大祥寺に寄進す。
天正16年
(1588)
手子生城主天羽源鉄斉死亡。のち菅谷氏これを守る。
天正17年
(1589)
佐竹に敗北後、一時欧州に逃亡していた小田天安父子は再び手子生の菅谷氏のもとに戻り旧配下の回状を廻す。
天正18年
(1590)
小田天庵、小田城の回復を図るが成らず、逆に佐竹により、手子生城が落城す。
(一説には天正16年とも言う)
秀吉、小田原北条氏を攻める。小田氏の旧臣もその去就に迷う。菅谷氏は秀吉の側につき徳川家康に従う。後に旗本となる。天庵は京都で客死(一説には慶長6年越前で死亡)。
文禄2年
(1593)
覚心院の前身福応寺を田倉より白畑に移し、覚心寺となす。
文禄3〜4年
(1594〜1595)
文禄の検地。以前田中庄であった手子生、上郷、野畑、木俣、いずれも筑波郡となり、村となる。旧旭村の一帯も同じく田中庄より、筑波郡となり村となる。上郷は筑波郡台豊田上郷村という。
(一説には天正16年とも言う)
慶長年中
(1596〜1615)
筑波郡台豊田上郷村は徳川氏の直轄地となる。
慶長以降
(1596〜)
古の「手配」または「手子丸」は手子生と定まった。
慶長7年
(1602)
佐竹移封の常陸の幕府直轄領を伊奈中耳が検地を実施。備前検地という。
慶長8年
(1603)
菅谷正光は旗本となり五千石を以って手子丸城に戻り、以後手子生と改める。
菅谷氏は以前の王讃寺を再考し菅谷家の菩提寺とする。曹洞宗に属す。
また雄山寺も開く。
慶長9年
(1604)
春日神社境内に「雨乞石」を建立。
寛永年中
(1624〜1644)
小貝川の西を下総国、東を常陸国上郷村とし国界を定める。
正保年中
(1644〜1648)
往時は「此又」といった一帯を木俣と改める。
慶安元年
(1648)
覚心院に対し三大将軍家光より御朱印3国を賜う。時宗に属す。同じく大祥寺も御朱印3国を賜う。
寛文年中
(1661〜1673)
野畑は菅谷八郎の所領となる(知行百石)。
野畑の旧石高185石。
旭村大字吉沼の旧高3千石と龍ヶ崎7千石をあわせて一万石。伊達陸奥守の領地となり、其の他の旭村一帯は旗本領となる。
元禄11年
(1698)
手子生一帯を支配した旧小田家の家臣菅谷範政、遠州に知行替えとなり、旗本堀田大五郎の知行所となる。
元禄15年
(1702)
検地高
今鹿島
1457石8斗4合
牛縊
401石3升4合
屋賀代 
126石2斗
高野  
249石2斗
九本木 
75石3斗4升3合
辻   
104石1斗9升
北   
261石5斗8升1合
中野内 
136石2斗2升7合
東原  
145石2斗4升7合
前木  
203石5斗5升7合
遠東  
433石2升4合
中東  
不 明
西屋賀代
155石1斗4升4合
西酒丸 
289石7斗7升5合
百家  
401石8斗1升1合
野畑  
182石5斗5
手子生 
660石8斗1升1合
上郷  
2748石7斗2升5合
木俣  
164石2升9合
宝永元年
(1704)
覚心寺(覚心院)を旭村内町に移す。
享保2年
(1717)
上郷村と称す。
寛保元年
(1741)
代官竹垣三右衛門、江戸に生きる。


 
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